千葉雅也『勉強の哲学:来たるべきバカのために』

「勉強」の見方を変える一冊!!

「勉強」と聞いて何を思うだろうか?
知識や能力を得ること、社会に出るために必要なこと、楽しいからやること、無意味なこと、、、。さまざまな答えが返ってきそうだ。
とはいえ、「勉強」には主として、新しいスキルや知識を獲得するというイメージが、伴っているように思われる。

しかし本書では、「勉強とは、自己破壊である」(18頁)と語られる。
私たちは今、私たちそれぞれが生活する環境の「ノリ」の中で生きている。「ノリ」とは、その環境で共有されている暗黙の了解、当然視されているルールのようなものだ。ところが、勉強をすると、これまで疑いもしなかった環境の「ノリ」に、疑問が湧いてきたりすることがある。ノリが悪くなるのだ。そして、これまで従ってきた「ノリ」に乗りきれなくなるという意味で、私たちは勉強を自己破壊的に経験するのである。

このように聞くと、「勉強なんてする意味ないじゃん」と思うかもしれない。そして、その指摘はまさしくその通りなのである。驚くべきことに、筆者自身も、「勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい」(20頁)と述べるのである。
しかし、この自己破壊も決して悪いことばかりではない。「自分は、環境のノリに、無意識のレベルで乗っ取られている」(29頁)と考えてみよう。私たちは知らず知らずのうちに、疑うこともなく、何かしらの「ノリ」に乗り、乗っ取られている。これは別に、単に悪いことではなく、良い側面もある。このような「ノリ」が多くの人の間で共有されているおかげで、生活がしやすくなっている部分もあるだろう。一方で、それはあくまでも「ノリ」であり、私たちは何かしらの「ノリ」に乗りながらも、「新しいノリ」を見つける可能性にも開かれているのだ。

そして本書は、その「新しいノリ」を見つけ出そうとし、「来たるべきバカ」となりゆく人たちに向けて書かれた一冊である。いま、「勉強」に向き合っている、「勉強」を始めたいと思っている、「勉強」に行き詰まっている、そんな人は、ぜひ手に取っていただきたい。

(以上、本書の紹介)
千葉雅也(2017)『勉強の哲学:来たるべきバカのために』文藝春秋

本書を読んで(コメント)

私たちは勉強をするときに、何かを「得る」ことに期待していると思う。
学校での勉強は、社会に出るための素地を「得る」ために、社会生活を送る上での共有された常識を「得る」ために、なされている側面があるように感じる。学習塾で勉強をするのは、受験で使える知識やスキルを「得る」ために他ならないだろう。

しかし、私たちは勉強するとき、何かを「得る」と同時に、「失って」もいないだろうか?
例えば、小学校で勉強を重ねるにつれて、高学年の子どもたちは難しい計算問題や文章読解をこなすスキルを「得る」。しかし、それと引き換えにして、低学年の頃もっていた、何かと不思議がる気持ちを「失って」もいるのかもしれない。私たちが現実的な問題に触れ続け、その中で現実を学び、現実についての知識を「得る」ことで、子どもらしい遊び心や自由な発想力が「失われて」いるかもしれないというのは、想像に難い話ではないはずだ。玄人にしかわからない勘どころも勿論あるわけだが、素人にしかない着眼点もあるような気がするのだ。

今日、私たちは科学的根拠、エビデンスを強く求める。そして、それは決して絶対的な悪ではない。エビデンスに基づくことで、議論の方向性が定まり、より活発に議論を進めることができるとも思う。しかし、そのエビデンスを疑う余地のない事実だと捉えて、そのエビデンスの上で議論や開発を推し進めると、見落としてしまう何かがあるのではないだろうか。エビデンスを信じ切り、エビデンスを疑わず、そのエビデンスの「ノリ」に縛られた時に、私たちはエビデンスという「ノリ」を「得る」と同時に、何かを「失って」しまっているような気がする。

おそらく、勉強をする時には、自分がそこから「得た」ものを信じすぎてはいけない。自分が元々、持っていたものは、いま勉強から得られたものと同じくらいの価値を持っている。その元々持っていたものを「失って」しまうのは、とても勿体ないことではないだろうか。「失いながら、得る」のではなく、「得ながら失わず、失わずに得る」ような勉強を、私自身、実践できるようになりたいと思う。

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